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第5話 俺がいる

Penulis: 東雲明
last update Tanggal publikasi: 2026-06-19 16:40:57

「いやあぁっ!」

 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。

 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。

 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。

 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。

「龍夜くん、少しだけ休んでいって」

 そう言って、俺の手を離さなかった。

 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。

 ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。

 その手を振りほどけなかった。

 気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。

 だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。

「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」

 涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。

 白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。

 綺麗な部屋だった。

 なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。

「ミユウ」

 俺は名前を呼んだ。

 届かない。

 ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。

「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」

 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

 昼間のミユウは、いつも笑っていた。

 天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。

 でも今のミユウは違う。

 笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。

「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」

「こないでっ!」

 伸ばした手を、ミユウが払いのけた。

 次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。

 頬に鋭い痛みが走る。

 叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。

 でも、腹は立たなかった。

 ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。

「いや……いやぁ……助けて、みんなを連れていかないで……!」

 ミユウは俺の胸を押し、腕を振り回し、逃げようとした。

 このままではベッドから落ちる。

 そう思った瞬間、俺は迷わずミユウの両手を掴んだ。

「っ、離して!」

「離さない」

 強く掴みすぎないように。

 でも、絶対に離さないように。

 俺は必死で力加減を探りながら、ミユウの手を包み込んだ。

「ミユウ、聞け。ここには誰もいない。お前を傷つける奴はいない」

「うそ……また、みんないなくなる……!」

「いなくならない」

「うそだよ……だって、みんな……!」

 ミユウの声が崩れた。

 俺は息を飲んだ。

 何を見ているのか、俺にはわからない。

 どんな過去なのかも知らない。

 けれど、ミユウの涙が本物だということだけはわかった。

 怖い夢を見ているだけ、なんて軽く言えるものじゃない。

 この子は今、夢の中で何度も失っている。

 何度も、何度も。

「龍夜……くん……?」

 ミユウの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。

 俺の名前を呼んだ。

 けれど、まだ悪夢から抜けきれていない。涙が頬を伝い、顎の先で小さく光っていた。

「そうだ。俺だ」

 俺はミユウの両手を片方の手で包み直し、もう片方の手で、震える指先をゆっくりさすった。

 こんなとき、どうすればいいのかなんて知らない。

 優しい言葉の正解も、慰め方の正解も、俺には何ひとつわからない。

 俺は普通の高校生だった。

 救世主と呼ばれても、スキルもない。魔力もない。昨日はスライム相手に転がされただけだ。

 でも、目の前で泣いている女の子を放っておけるほど、俺は器用じゃなかった。

「大丈夫だ。俺がいる。お前はもう悪夢を見ない」

 言ってから、自分で無茶なことを言ったと思った。

 悪夢なんて、俺が止められるものじゃない。

 それでも言わずにはいられなかった。

 ミユウがこんなふうに泣くなら、何度でも起きる。

 何度でも名前を呼ぶ。

 何度でも、その手を掴む。

「だから、もう逃げなくていい」

「りゅう、やくん……」

「俺の腕の中で眠れ。怖い夢を見たら、すぐに起こしてやる。何回でも、俺が引き戻す」

 ミユウの喉が、小さく震えた。

 拒絶ではなかった。

 泣き疲れた子どもみたいな、頼りない吐息だった。

 俺はミユウの身体をそっと抱き寄せた。

 白い羽が腕に触れる。

 ふわりと軽い。

 けれど、その軽さの奥に沈んでいる孤独は、たぶん俺なんかが想像できる重さじゃない。

「……ほんとうに?」

「ああ」

「龍夜くん、いなくならない?」

「いなくならない」

 即答した。

 根拠なんてなかった。

 でも、ここで迷ったら駄目だと思った。

 ミユウはずっと、誰かにそう言ってほしかったんじゃないか。

 何があってもいなくならないと。

 泣いて暴れても、怖い夢に呑まれても、それでも手を離さないと。

 そう言ってくれる誰かを、ずっと待っていたんじゃないか。

 俺は救世主なんかじゃない。

 でも、今この瞬間だけは、ミユウをひとりにしたくなかった。

「約束する。俺はここにいる」

 ミユウは俺の胸元をぎゅっと掴んだ。

 小さな指が、服にしわを作る。

 その力が、少しずつ弱くなっていった。

 乱れていた呼吸が、俺の心臓の音に合わせるみたいに落ち着いていく。

 やがて、ミユウのまぶたが重そうに下がった。

 涙の跡が残った頬は、まだ青白い。

 それでも、さっきまで悪夢に引き裂かれていた表情から、少しだけ力が抜けていた。

「龍夜くん……」

「ん?」

「……あったかい」

 それだけ言って、ミユウは眠った。

 深い眠りだった。

 俺の腕の中で、白い翼を小さく畳み、身を寄せている。

 かすかに涙が一筋、閉じた目尻からこぼれた。

 俺はそれを指で拭っていいのか迷って、結局、何もできずに見つめることしかできなかった。

 頬はまだ痛い。

 でも、それ以上に胸が痛かった。

「……どんな夢を見てたんだよ」

 答えはない。

 俺はしばらく動けなかった。

 腕の中の温もりが、あまりにも頼りなくて。少し力を抜けば、またどこかに連れていかれそうで。

 だから俺は、ミユウが完全に眠りに落ちるまで、ずっと同じ姿勢でいた。

 どれくらい経ったのか、わからない。

 扉の向こうで、気配がした。

「入るぞ」

 低い声とともに、ルゥが部屋に入ってきた。

 銀の髪が月明かりを受け、冷たく光っている。

 相変わらず、俺を見る目は鋭かった。

 けれど、ベッドの上で眠るミユウに視線を移した瞬間、その表情だけがわずかに変わった。

 痛みを隠すような顔だった。

「……眠ったのか」

「ああ。さっきまで、ひどくうなされてた」

「見たか」

 ルゥは近づいてこなかった。

 入り口のそばに立ったまま、眠るミユウを見ていた。

「お父さんとお母さんがどうとか、みんなを連れていかないでとか言ってた。俺のことも、最初は見えてなかった」

 口にすると、あの悲鳴がまた耳の奥で響いた。

 俺は無意識に拳を握る。

「なあ、ルゥ。ミユウは……あんな夢を、何度見てるんだ」

 ルゥはすぐには答えなかった。

 沈黙が長く感じた。

 月明かりの中で、ルゥの横顔は石像みたいに硬い。

 やがて、彼は短く息を吐いた。

「九百年だ」

 意味がわからなかった。

 いや、言葉の意味はわかる。

 九百年。

 人間の俺には長すぎて、現実味のない数字だ。

 でも、ミユウのあの震えと結びつけた瞬間、息が詰まった。

「九百年……?」

「そうだ。ミユウは九百年、毎晩あの悪夢にうなされてきた」

 頭の中が、真っ白になった。

 毎晩。

 あの悲鳴を。

 あの恐怖を。

 あの涙を。

 一日じゃない。

 一週間でも、一年でもない。

 九百年。

 それなのに、昼間のミユウは笑っていた。

 俺に手を差し出して、怖くないよとでも言うみたいに。

 自分の痛みなんて、まるで何もないみたいに。

「なんで……」

 声が掠れた。

「なんで誰も止めてやれなかったんだよ」

 言ってから、ルゥの顔を見た。

 責めたいわけじゃない。

 けれど、言わずにいられなかった。

 こんなの、あんまりだ。

 ルゥの瞳が細くなる。

「止められるものなら、とっくに止めている」

 その声は冷たかった。

 でも、怒りだけじゃない。

 悔しさも、諦めも、長い時間で削られた傷も混じっていた。

「癒しの力は、他者の痛みを和らげる。だが、ミユウ自身の記憶までは消せない。あいつは笑う。誰かを安心させるために笑う。自分が壊れかけていてもな」

 俺は眠るミユウを見下ろした。

 白い髪が枕に広がり、月明かりを受けて淡く光っている。

 そこにいるのは、世界に狙われる特別な存在なんかじゃない。

 ただ悪夢に泣き疲れた、ひとりの女の子だった。

 俺は、何も知らなかった。

 ミユウが俺に笑ってくれた意味も。

 俺の手を取ってくれた重さも。

 何も。

「お前に、これが背負えるのか」

 ルゥの声が落ちた。

 俺は顔を上げる。

「ミユウは天使族からも悪魔族からも狙われている。癒しの力を欲しがる者はいくらでもいる。守ると言うのは簡単だ。だが、お前はスキルなし。魔力なし。昨日のスライムにもまともに勝てない雑魚だ」

「わかってる」

「わかっていない」

 ルゥの声が鋭くなった。

「お前が倒れれば、ミユウはまた失う。お前の中途半端な優しさは、あいつに新しい傷を増やすだけだ」

 胸の奥で、何かが熱くなった。

 反論したかった。

 俺だって本気だと叫びたかった。

 けれど、喉まで出かかった言葉は、そこで止まった。

 ルゥの言うことは、たぶん正しい。

 今の俺は弱い。

 ミユウを抱きしめることはできても、襲ってくる敵を倒せるかと聞かれたら、答えられない。

 綺麗な約束だけで守れるほど、この世界は甘くない。

 だからこそ、悔しかった。

 自分の弱さが。

 口先だけになりそうな今の自分が。

 俺はそっとミユウをベッドに横たえた。

 できるだけ起こさないように、腕を抜く。

 ミユウの指が一瞬だけ俺の服を掴み直したが、すぐに力が抜けた。

 その指先に、さっきの震えはもうない。

 俺は掛け布を直し、彼女の白い翼が窮屈にならないように整えた。

「……ルゥ」

「なんだ」

「外に出る」

 ルゥが眉を動かした。

「何をする気だ」

「昨日の続きだ」

 俺は立ち上がった。

 頬の痛みも、腕に残るミユウの温もりも、全部が消えなかった。

 消えてほしくなかった。

 今ここで忘れたら、俺はまたただの情けない高校生に戻ってしまう気がした。

「スライム、もう一回出してくれ」

 ルゥはしばらく俺を見ていた。

 それから、小さく鼻で笑った。

「死にたいのか?」

「死にたくない」

 俺は即答した。

「怖いし、痛いのも嫌だ。正直、昨日の時点でもう逃げたいと思った」

「なら寝ていろ。ミユウの隣で優しい言葉だけ吐いていればいい」

 その言葉に、胸が刺された。

 でも、目は逸らさなかった。

「それじゃ駄目なんだよ」

 俺は眠るミユウを振り返った。

 彼女は静かに眠っている。

 俺の言葉で、少しでも安心してくれたのかもしれない。

 なら、その安心を嘘にしたくなかった。

「俺がいるって言った。いなくならないって約束した。だったら、抱きしめるだけじゃ足りない」

 ルゥの瞳が、わずかに揺れた。

「……口だけなら、誰でも言える」

「だから、今から証明する」

 俺は部屋を出た。

 神殿の廊下は、夜の静けさに沈んでいた。

 白い柱の間を、月明かりが細く流れている。どこか遠くで、水の音がした。昼間なら神聖に見えたはずの景色が、今はやけに冷たく見える。

 俺の足は重かった。

 身体のあちこちが痛む。

 昨日のスライム相手の情けない戦いが、嫌でも蘇る。

 転んだ感触。

 息が詰まる恐怖。

 ルゥの冷たい視線。

 ミユウの心配そうな顔。

 逃げたい。

 それは嘘じゃない。

 でも、戻りたいとは思わなかった。

 神殿の裏庭に出ると、夜気が頬を冷やした。

 青白い花が風に揺れている。石畳の先には、訓練用の広場があった。

 ルゥが俺の前に立つ。

 その手に、淡い光が集まった。

「最後に聞く。やめるなら今だ」

「やめない」

「スライム相手に怯える救世主など、見ているだけで腹が立つ」

「俺も、自分に腹が立ってる」

 だから来た。

 そう言う代わりに、俺は拳を握った。

 ルゥの足元に光の陣が浮かぶ。

 そこから、透明な粘液の塊がゆっくりと形を持った。

 スライム。

 昨日、俺を地面に転がし、息を奪い、情けない悲鳴まで上げさせた相手。

 たかがスライム。

 されど、今の俺には壁だった。

 喉が乾く。

 手のひらに汗がにじむ。

 足が一歩下がりそうになる。

 怖い。

 認めたくないくらい、怖い。

 けれど、ミユウの悲鳴を思い出した瞬間、逃げる理由がどこにもなくなった。

 九百年、毎晩あの悪夢に叩き起こされてきた女の子がいる。

 それでも笑って、俺を信じようとしてくれた女の子がいる。

 なら、俺は一晩くらい、地面に転がされても立て。

 泣き言を吐くなら、そのあとで吐け。

「来い」

 俺はスライムを睨んだ。

 スライムが跳ねる。

 思っていたより速い。

 反射的に身体がすくむ。

 逃げろ、と本能が叫んだ。

 でも、俺は足を踏み出した。

「怖いけど、もう逃げない」

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     白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は

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     教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ

  • アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜   第7話 俺はもう、逃げない

    「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!

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