Masuk「いやあぁっ!」
ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。
胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。
昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。
そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。
「龍夜くん、少しだけ休んでいって」
そう言って、俺の手を離さなかった。
本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。
ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。
その手を振りほどけなかった。
気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。
だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。
「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」
涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。
白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。
綺麗な部屋だった。
なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。
「ミユウ」
俺は名前を呼んだ。
届かない。
ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。
「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
昼間のミユウは、いつも笑っていた。
天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。
でも今のミユウは違う。
笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。
「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」
「こないでっ!」
伸ばした手を、ミユウが払いのけた。
次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。
頬に鋭い痛みが走る。
叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。
でも、腹は立たなかった。
ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。
「いや……いやぁ……助けて、みんなを連れていかないで……!」
ミユウは俺の胸を押し、腕を振り回し、逃げようとした。
このままではベッドから落ちる。
そう思った瞬間、俺は迷わずミユウの両手を掴んだ。
「っ、離して!」
「離さない」
強く掴みすぎないように。
でも、絶対に離さないように。
俺は必死で力加減を探りながら、ミユウの手を包み込んだ。
「ミユウ、聞け。ここには誰もいない。お前を傷つける奴はいない」
「うそ……また、みんないなくなる……!」
「いなくならない」
「うそだよ……だって、みんな……!」
ミユウの声が崩れた。
俺は息を飲んだ。
何を見ているのか、俺にはわからない。
どんな過去なのかも知らない。
けれど、ミユウの涙が本物だということだけはわかった。
怖い夢を見ているだけ、なんて軽く言えるものじゃない。
この子は今、夢の中で何度も失っている。
何度も、何度も。
「龍夜……くん……?」
ミユウの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
俺の名前を呼んだ。
けれど、まだ悪夢から抜けきれていない。涙が頬を伝い、顎の先で小さく光っていた。
「そうだ。俺だ」
俺はミユウの両手を片方の手で包み直し、もう片方の手で、震える指先をゆっくりさすった。
こんなとき、どうすればいいのかなんて知らない。
優しい言葉の正解も、慰め方の正解も、俺には何ひとつわからない。
俺は普通の高校生だった。
救世主と呼ばれても、スキルもない。魔力もない。昨日はスライム相手に転がされただけだ。
でも、目の前で泣いている女の子を放っておけるほど、俺は器用じゃなかった。
「大丈夫だ。俺がいる。お前はもう悪夢を見ない」
言ってから、自分で無茶なことを言ったと思った。
悪夢なんて、俺が止められるものじゃない。
それでも言わずにはいられなかった。
ミユウがこんなふうに泣くなら、何度でも起きる。
何度でも名前を呼ぶ。
何度でも、その手を掴む。
「だから、もう逃げなくていい」
「りゅう、やくん……」
「俺の腕の中で眠れ。怖い夢を見たら、すぐに起こしてやる。何回でも、俺が引き戻す」
ミユウの喉が、小さく震えた。
拒絶ではなかった。
泣き疲れた子どもみたいな、頼りない吐息だった。
俺はミユウの身体をそっと抱き寄せた。
白い羽が腕に触れる。
ふわりと軽い。
けれど、その軽さの奥に沈んでいる孤独は、たぶん俺なんかが想像できる重さじゃない。
「……ほんとうに?」
「ああ」
「龍夜くん、いなくならない?」
「いなくならない」
即答した。
根拠なんてなかった。
でも、ここで迷ったら駄目だと思った。
ミユウはずっと、誰かにそう言ってほしかったんじゃないか。
何があってもいなくならないと。
泣いて暴れても、怖い夢に呑まれても、それでも手を離さないと。
そう言ってくれる誰かを、ずっと待っていたんじゃないか。
俺は救世主なんかじゃない。
でも、今この瞬間だけは、ミユウをひとりにしたくなかった。
「約束する。俺はここにいる」
ミユウは俺の胸元をぎゅっと掴んだ。
小さな指が、服にしわを作る。
その力が、少しずつ弱くなっていった。
乱れていた呼吸が、俺の心臓の音に合わせるみたいに落ち着いていく。
やがて、ミユウのまぶたが重そうに下がった。
涙の跡が残った頬は、まだ青白い。
それでも、さっきまで悪夢に引き裂かれていた表情から、少しだけ力が抜けていた。
「龍夜くん……」
「ん?」
「……あったかい」
それだけ言って、ミユウは眠った。
深い眠りだった。
俺の腕の中で、白い翼を小さく畳み、身を寄せている。
かすかに涙が一筋、閉じた目尻からこぼれた。
俺はそれを指で拭っていいのか迷って、結局、何もできずに見つめることしかできなかった。
頬はまだ痛い。
でも、それ以上に胸が痛かった。
「……どんな夢を見てたんだよ」
答えはない。
俺はしばらく動けなかった。
腕の中の温もりが、あまりにも頼りなくて。少し力を抜けば、またどこかに連れていかれそうで。
だから俺は、ミユウが完全に眠りに落ちるまで、ずっと同じ姿勢でいた。
どれくらい経ったのか、わからない。
扉の向こうで、気配がした。
「入るぞ」
低い声とともに、ルゥが部屋に入ってきた。
銀の髪が月明かりを受け、冷たく光っている。
相変わらず、俺を見る目は鋭かった。
けれど、ベッドの上で眠るミユウに視線を移した瞬間、その表情だけがわずかに変わった。
痛みを隠すような顔だった。
「……眠ったのか」
「ああ。さっきまで、ひどくうなされてた」
「見たか」
ルゥは近づいてこなかった。
入り口のそばに立ったまま、眠るミユウを見ていた。
「お父さんとお母さんがどうとか、みんなを連れていかないでとか言ってた。俺のことも、最初は見えてなかった」
口にすると、あの悲鳴がまた耳の奥で響いた。
俺は無意識に拳を握る。
「なあ、ルゥ。ミユウは……あんな夢を、何度見てるんだ」
ルゥはすぐには答えなかった。
沈黙が長く感じた。
月明かりの中で、ルゥの横顔は石像みたいに硬い。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「九百年だ」
意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
九百年。
人間の俺には長すぎて、現実味のない数字だ。
でも、ミユウのあの震えと結びつけた瞬間、息が詰まった。
「九百年……?」
「そうだ。ミユウは九百年、毎晩あの悪夢にうなされてきた」
頭の中が、真っ白になった。
毎晩。
あの悲鳴を。
あの恐怖を。
あの涙を。
一日じゃない。
一週間でも、一年でもない。
九百年。
それなのに、昼間のミユウは笑っていた。
俺に手を差し出して、怖くないよとでも言うみたいに。
自分の痛みなんて、まるで何もないみたいに。
「なんで……」
声が掠れた。
「なんで誰も止めてやれなかったんだよ」
言ってから、ルゥの顔を見た。
責めたいわけじゃない。
けれど、言わずにいられなかった。
こんなの、あんまりだ。
ルゥの瞳が細くなる。
「止められるものなら、とっくに止めている」
その声は冷たかった。
でも、怒りだけじゃない。
悔しさも、諦めも、長い時間で削られた傷も混じっていた。
「癒しの力は、他者の痛みを和らげる。だが、ミユウ自身の記憶までは消せない。あいつは笑う。誰かを安心させるために笑う。自分が壊れかけていてもな」
俺は眠るミユウを見下ろした。
白い髪が枕に広がり、月明かりを受けて淡く光っている。
そこにいるのは、世界に狙われる特別な存在なんかじゃない。
ただ悪夢に泣き疲れた、ひとりの女の子だった。
俺は、何も知らなかった。
ミユウが俺に笑ってくれた意味も。
俺の手を取ってくれた重さも。
何も。
「お前に、これが背負えるのか」
ルゥの声が落ちた。
俺は顔を上げる。
「ミユウは天使族からも悪魔族からも狙われている。癒しの力を欲しがる者はいくらでもいる。守ると言うのは簡単だ。だが、お前はスキルなし。魔力なし。昨日のスライムにもまともに勝てない雑魚だ」
「わかってる」
「わかっていない」
ルゥの声が鋭くなった。
「お前が倒れれば、ミユウはまた失う。お前の中途半端な優しさは、あいつに新しい傷を増やすだけだ」
胸の奥で、何かが熱くなった。
反論したかった。
俺だって本気だと叫びたかった。
けれど、喉まで出かかった言葉は、そこで止まった。
ルゥの言うことは、たぶん正しい。
今の俺は弱い。
ミユウを抱きしめることはできても、襲ってくる敵を倒せるかと聞かれたら、答えられない。
綺麗な約束だけで守れるほど、この世界は甘くない。
だからこそ、悔しかった。
自分の弱さが。
口先だけになりそうな今の自分が。
俺はそっとミユウをベッドに横たえた。
できるだけ起こさないように、腕を抜く。
ミユウの指が一瞬だけ俺の服を掴み直したが、すぐに力が抜けた。
その指先に、さっきの震えはもうない。
俺は掛け布を直し、彼女の白い翼が窮屈にならないように整えた。
「……ルゥ」
「なんだ」
「外に出る」
ルゥが眉を動かした。
「何をする気だ」
「昨日の続きだ」
俺は立ち上がった。
頬の痛みも、腕に残るミユウの温もりも、全部が消えなかった。
消えてほしくなかった。
今ここで忘れたら、俺はまたただの情けない高校生に戻ってしまう気がした。
「スライム、もう一回出してくれ」
ルゥはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく鼻で笑った。
「死にたいのか?」
「死にたくない」
俺は即答した。
「怖いし、痛いのも嫌だ。正直、昨日の時点でもう逃げたいと思った」
「なら寝ていろ。ミユウの隣で優しい言葉だけ吐いていればいい」
その言葉に、胸が刺された。
でも、目は逸らさなかった。
「それじゃ駄目なんだよ」
俺は眠るミユウを振り返った。
彼女は静かに眠っている。
俺の言葉で、少しでも安心してくれたのかもしれない。
なら、その安心を嘘にしたくなかった。
「俺がいるって言った。いなくならないって約束した。だったら、抱きしめるだけじゃ足りない」
ルゥの瞳が、わずかに揺れた。
「……口だけなら、誰でも言える」
「だから、今から証明する」
俺は部屋を出た。
神殿の廊下は、夜の静けさに沈んでいた。
白い柱の間を、月明かりが細く流れている。どこか遠くで、水の音がした。昼間なら神聖に見えたはずの景色が、今はやけに冷たく見える。
俺の足は重かった。
身体のあちこちが痛む。
昨日のスライム相手の情けない戦いが、嫌でも蘇る。
転んだ感触。
息が詰まる恐怖。
ルゥの冷たい視線。
ミユウの心配そうな顔。
逃げたい。
それは嘘じゃない。
でも、戻りたいとは思わなかった。
神殿の裏庭に出ると、夜気が頬を冷やした。
青白い花が風に揺れている。石畳の先には、訓練用の広場があった。
ルゥが俺の前に立つ。
その手に、淡い光が集まった。
「最後に聞く。やめるなら今だ」
「やめない」
「スライム相手に怯える救世主など、見ているだけで腹が立つ」
「俺も、自分に腹が立ってる」
だから来た。
そう言う代わりに、俺は拳を握った。
ルゥの足元に光の陣が浮かぶ。
そこから、透明な粘液の塊がゆっくりと形を持った。
スライム。
昨日、俺を地面に転がし、息を奪い、情けない悲鳴まで上げさせた相手。
たかがスライム。
されど、今の俺には壁だった。
喉が乾く。
手のひらに汗がにじむ。
足が一歩下がりそうになる。
怖い。
認めたくないくらい、怖い。
けれど、ミユウの悲鳴を思い出した瞬間、逃げる理由がどこにもなくなった。
九百年、毎晩あの悪夢に叩き起こされてきた女の子がいる。
それでも笑って、俺を信じようとしてくれた女の子がいる。
なら、俺は一晩くらい、地面に転がされても立て。
泣き言を吐くなら、そのあとで吐け。
「来い」
俺はスライムを睨んだ。
スライムが跳ねる。
思っていたより速い。
反射的に身体がすくむ。
逃げろ、と本能が叫んだ。
でも、俺は足を踏み出した。
「怖いけど、もう逃げない」
「ちょっと!帰れないってどういうことよ!」 美咲の声が石の壁に跳ね返り、俺たちの間へ戻ってきた。美咲はその響きにも驚いたように唇を閉じ、青白い光の消えた場所を見返した。踏み出しかけた足が止まる。そこにはもう何もなく、窓から差す明かりが床の石目を照らしていた。ついさっきまで帰り道の開くはずだった空間を、俺も目で探してしまう。 母さんの手が葵の肩に置かれた。父さんは床を見つめてからルゥへ顔を上げたが、その口が開くより先に、美咲が息を吸った。「映画のクランクアップだって明日なのよ!女子高生俳優、初めてランウェイを歩くって今すっごい注目されてるのに!」 言い終えた美咲の喉が、小さく上下した。いつもなら胸を張って話すことなのに、今は誰かに引き止めてもらいたいような声に聞こえた。指先が落ち着かずに擦れ合い、やがて片方の手でもう片方を握り込む。俺へ向けられた目が、すぐにルゥへ移った。 明日には帰れる。その前提が崩れるだけで、姉の声はこんなにも変わってしまう。祝ってもらったばかりの俺には、なおさら返す言葉が見つからなかった。ここへ来てよかったと思ったまま帰ってほしかったのに、今、その帰り道さえ渡してやれない。 隣から花の匂いがした。ミユウのドレスに残る婚礼の香りが、場違いなくらい優しかった。「明日の算数の小テストで平均点取ったら、タケルくんが告白してくれるのに!」 葵は母さんの手の下から身を乗り出していた。俺と目が合っても、いつものように照れて笑ったりしない。唇の端をきゅっと引き結び、返事を待っている。その真剣さに、喉まで出かかった曖昧な慰めが引っ込んだ。 葵にとっての明日は、ただ日付が変わることじゃない。教室へ行って、小テストを受けて、好きな相手の言葉を待つ一日だ。俺が何も言えずにいるうちに、葵の視線が下がった。母さんの手を探した指が、見つけるなり強く絡みつく。「わたしも、今日中には帰れると思ってたよ」 母さんは葵の指を包んだまま、美咲を見た。何か言おうと口を開き、結局、そのまま閉じる。その頬にもさっきまでの柔らかさはなかった。「葵ちゃん……大丈夫?」 ミユウが葵へ近づこうとして、傷をかばうように一度足を止めた。白い翼が背中でこわばり、ドレスの裾だけが遅れて揺れる。葵は顔を上げたが、うなずかなかった。代わりにミユウの手元へ目を落とし、母さんのそばへ少し寄
ミユウの唇から、息になりきらない声が漏れた。寝具を握る指が少しずつ丸まり、白い服の胸元に深いしわを寄せる。布団の脇に出た小さな翼は、何かを振り払おうとするように震えていた。 窓の向こうでは風が鳴っていた。昼間のぬくもりを失った石壁に囲まれ、寝台だけがひどく頼りなく見える。俺は制服の袖を引き上げ、ミユウの頬に張りついた銀白色の前髪をそっと撫でた。そばに立つルゥが、眩しくないよう燭台を遠ざける。 指が額に触れた瞬間、ミユウが飛び起きた。「葵!」 俺はすかさず抱きしめた。背中へ回しかけた腕をずらし、傷と翼を避けて体を支える。寝具の下にこもっていた熱が伝わってきたのに、俺の首筋へ触れた指先は冷たかった。「葵は隣の部屋で母さんと寝てる。大丈夫だ」 ミユウは戸口を見つめた。俺の声が届いていないのかと思った頃、制服をつかむ手に、いっそう力がこもった。「でも、さっきまで……手、つないでたのに。葵、ちゃんといる?」「ああ。朝になったら、一緒に会いに行こう」 彼女は唇を噛み、俺の胸へ額を押しつけた。無事だと何度言っても、夢の中で離れた手は、まだ彼女の中で見つからないのかもしれない。俺は続きを急がず、細い肩が上下するのを待った。胸の呪いが鈍く疼いたが、身じろぎして、この腕までほどけると思わせたくなかった。 小さなノックの後、父さんが入ってきた。寝台へ近づく足が途中で止まり、俺にしがみつくミユウへ目が留まる。ルゥに向けた声は低かった。「心的外傷後ストレス障害ではないか」「シンテキ?それは現代日本の呪文ですか?」 父さんは説明しかけるように口を開いた。しかし、ミユウの顔を見て唇を閉じ、視線を床へ落とした。「なんでもありません」 父さんまで言葉を選んでいる。そのことが、聞き慣れない言葉より胸に残った。俺はミユウの手を包み直した。指の力が少し緩んでも、廊下で物音がすると、また制服が引かれる。「お兄さん、寝ちゃっても、ここにいてね」 うなずくと、彼女はようやく目を閉じた。俺はその後も椅子へ戻らず、寝台の縁で体を支え続けた。腕の中の呼吸が深くなるまで、蝋燭の芯が焦げる匂いと、窓を鳴らす風だけが長い夜を少しずつ進めた。 翌朝、カーテンの裾に明るい線が差した。 隣室から葵の声が聞こえたとき、ミユウは俺より先に顔を上げた。扉のところに現れた葵を見つめ、差し出された手
昼間の白い服から着慣れた制服に戻り、袖口を整えると、肩の力が少し抜けた。回廊を染める夕日の中で、母さんと美咲が明日の婚礼に使う花をのぞき込んでいる。花瓶を置いた台の後ろには、壁を斜めに走る亀裂が残っていた。その前で聞き慣れた声が交わされることが、不思議で、離れがたかった。「ミユウ、城の外に綺麗なお花畑見つけた。遊びに行こうよ」 葵に手を取られ、ミユウが困ったように俺を振り返った。銀白色の髪の間からのぞく頬は緩み、背中の小さな翼が、行きたい気持ちを隠せないように浮いている。引かれるままに踏み出した足が白い服の裾を揺らすのを見て、俺も笑った。「俺もすぐ行くからな」 葵が花畑の方角を言い残す。二人の後を追おうとしたところで、父さんの声が背中に届いた。「龍夜。本当にここに残るんだな。勇者として生きることまで、引き受ける覚悟はあるのか」 父さんの目が一度だけ俺の胸元へ落ちた。答えを急かされないことが、かえって胸に重かった。回廊の向こうでは葵が何か言い、ミユウが声を立てて笑った。あの笑い声のそばで暮らしたい。そのために必要なことを、父さんに言われるまで考えていなかったわけじゃない。「ミユウと、ここで暮らしたい。守るために戦うことも、誰かに任せて逃げるつもりはない」 父さんは唇を結んだまま俺を見ていた。隣から伸びた母さんの手が袖に触れ、布越しに腕を包む。「無理はするんじゃない」 うなずいても、その手はすぐには離れなかった。美咲が俺の肩を軽く叩き、いつもの調子を探すように口元を上げる。「葵をよろしくね。あんたも、ちゃんと戻っておいでよ」 ルゥと回廊を曲がると、家族の声が遠くなった。袖の温かさだけが取り残されたようで、腕を下ろすのをためらう。振り返ればまた足が止まりそうだったから、先に行った二人の笑い声を思い出して歩幅を広げた。 城門の外では、夕風が頬に冷たかった。右手へ続く道をたどると、花の茂みの前で細い道が分かれている。白いものが見えて近づいても、薄明かりに浮かぶ花の房だった。城壁の影が長く伸び、行き先を教えた葵の声ばかりが、妙にはっきり耳に残る。「葵、ミユウ。どこだ?」 返事を待つ間、茂みをこする風の音が大きくなった。こんなに呼んで聞こえないほど遠くへ行ったのか。ルゥと顔を見合わせ、奥の小道へ踏み出しかけたときだった。「にいちゃーーん!!」
「どうした?!ミユウ!」 肩へ添えた手に、細かな震えが伝わった。黒い服の襟元には銀白色の髪が貼りつき、小さな白い翼が寝具を押している。息を吸おうと開かれた唇からは、掠れた音しか出てこない。目の前にいる俺を通り過ぎて、その視線は部屋の暗がりを探していた。 何を見たのか。どこか痛むのか。尋ねたいことが喉につかえたが、ミユウの口元がまた震えるのを見て、言葉を飲み込んだ。高い天井の聖紋も、月明かりを透かす白い垂れ布も、今は彼女を安心させてくれない。俺は顔を近づけ、視線が戻ってくるのを待った。「お兄さん、いる?」「いる、ずっと」 制服の袖を探っていた指が、俺の手を掴んだ。爪の先が食い込む。その痛みを受け止めていると、強張った指がわずかにほどけ、今度は小指だけを握り直した。手首に細い吐息がかかる。肩の震えは残っていたが、俺の顔を見つけた目が、ようやくそこに留まった。 大丈夫だと、何度でも言ってやりたかった。けれど、その言葉のあとでまた息を詰めたら、俺はどうすればいい。慰め方を探すほど、自分の声で彼女の苦しさを覆ってしまいそうで、繋いだ手に少し力を返すことしかできなかった。 寝台の縁から下ろした足に、石床の冷たさが沁みてくる。毛布を引き寄せるための片手さえ、今は惜しかった。ミユウが目を閉じても、指はときおり俺を確かめた。そのたびに握り返し、腕の置き方を変えながら、垂れ布の向こうが明るむまでそばにいた。 翌朝の小食堂には、焼けたパンと温かなスープの匂いが満ちていた。母さんが皿を寄せ、美咲が葵の口元についたパン屑を指摘する。石の壁に響く家族の声を聞いていると、夜の暗がりがようやく背中から離れていく気がした。「ミユウ、このジャムおいしいよ。昨日のクッキーにも合いそう」 葵が差し出した小皿の前で、ミユウのスプーンが止まっていた。呼ばれたことに気づくまで、少し間がある。「……うん。あとで、食べたい」 笑おうとした口元が、すぐに下がった。昨日は焼き上がったクッキーを自分から差し出していたのに、今朝は隣の葵へ何か言いかけても、膝へ目を落としてしまう。向かいの父さんも、そのたびにパンをちぎる手を止めていた。 食事のあと、父さんに呼ばれ、俺とルゥは窓辺へ寄った。夜中の様子を伝えると、ルゥは食卓に残るミユウを見て、声を落とした。「ミユウは九百年にわたり、ひとりで人々を助け
「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少
「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!







