登入「いやあぁっ!」
ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。
胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。
昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。
そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。
「龍夜くん、少しだけ休んでいって」
そう言って、俺の手を離さなかった。
本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。
ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。
その手を振りほどけなかった。
気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。
だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。
「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」
涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。
白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。
綺麗な部屋だった。
なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。
「ミユウ」
俺は名前を呼んだ。
届かない。
ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。
「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
昼間のミユウは、いつも笑っていた。
天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。
でも今のミユウは違う。
笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。
「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」
「こないでっ!」
伸ばした手を、ミユウが払いのけた。
次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。
頬に鋭い痛みが走る。
叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。
でも、腹は立たなかった。
ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。
「いや……いやぁ……助けて、みんなを連れていかないで……!」
ミユウは俺の胸を押し、腕を振り回し、逃げようとした。
このままではベッドから落ちる。
そう思った瞬間、俺は迷わずミユウの両手を掴んだ。
「っ、離して!」
「離さない」
強く掴みすぎないように。
でも、絶対に離さないように。
俺は必死で力加減を探りながら、ミユウの手を包み込んだ。
「ミユウ、聞け。ここには誰もいない。お前を傷つける奴はいない」
「うそ……また、みんないなくなる……!」
「いなくならない」
「うそだよ……だって、みんな……!」
ミユウの声が崩れた。
俺は息を飲んだ。
何を見ているのか、俺にはわからない。
どんな過去なのかも知らない。
けれど、ミユウの涙が本物だということだけはわかった。
怖い夢を見ているだけ、なんて軽く言えるものじゃない。
この子は今、夢の中で何度も失っている。
何度も、何度も。
「龍夜……くん……?」
ミユウの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
俺の名前を呼んだ。
けれど、まだ悪夢から抜けきれていない。涙が頬を伝い、顎の先で小さく光っていた。
「そうだ。俺だ」
俺はミユウの両手を片方の手で包み直し、もう片方の手で、震える指先をゆっくりさすった。
こんなとき、どうすればいいのかなんて知らない。
優しい言葉の正解も、慰め方の正解も、俺には何ひとつわからない。
俺は普通の高校生だった。
救世主と呼ばれても、スキルもない。魔力もない。昨日はスライム相手に転がされただけだ。
でも、目の前で泣いている女の子を放っておけるほど、俺は器用じゃなかった。
「大丈夫だ。俺がいる。お前はもう悪夢を見ない」
言ってから、自分で無茶なことを言ったと思った。
悪夢なんて、俺が止められるものじゃない。
それでも言わずにはいられなかった。
ミユウがこんなふうに泣くなら、何度でも起きる。
何度でも名前を呼ぶ。
何度でも、その手を掴む。
「だから、もう逃げなくていい」
「りゅう、やくん……」
「俺の腕の中で眠れ。怖い夢を見たら、すぐに起こしてやる。何回でも、俺が引き戻す」
ミユウの喉が、小さく震えた。
拒絶ではなかった。
泣き疲れた子どもみたいな、頼りない吐息だった。
俺はミユウの身体をそっと抱き寄せた。
白い羽が腕に触れる。
ふわりと軽い。
けれど、その軽さの奥に沈んでいる孤独は、たぶん俺なんかが想像できる重さじゃない。
「……ほんとうに?」
「ああ」
「龍夜くん、いなくならない?」
「いなくならない」
即答した。
根拠なんてなかった。
でも、ここで迷ったら駄目だと思った。
ミユウはずっと、誰かにそう言ってほしかったんじゃないか。
何があってもいなくならないと。
泣いて暴れても、怖い夢に呑まれても、それでも手を離さないと。
そう言ってくれる誰かを、ずっと待っていたんじゃないか。
俺は救世主なんかじゃない。
でも、今この瞬間だけは、ミユウをひとりにしたくなかった。
「約束する。俺はここにいる」
ミユウは俺の胸元をぎゅっと掴んだ。
小さな指が、服にしわを作る。
その力が、少しずつ弱くなっていった。
乱れていた呼吸が、俺の心臓の音に合わせるみたいに落ち着いていく。
やがて、ミユウのまぶたが重そうに下がった。
涙の跡が残った頬は、まだ青白い。
それでも、さっきまで悪夢に引き裂かれていた表情から、少しだけ力が抜けていた。
「龍夜くん……」
「ん?」
「……あったかい」
それだけ言って、ミユウは眠った。
深い眠りだった。
俺の腕の中で、白い翼を小さく畳み、身を寄せている。
かすかに涙が一筋、閉じた目尻からこぼれた。
俺はそれを指で拭っていいのか迷って、結局、何もできずに見つめることしかできなかった。
頬はまだ痛い。
でも、それ以上に胸が痛かった。
「……どんな夢を見てたんだよ」
答えはない。
俺はしばらく動けなかった。
腕の中の温もりが、あまりにも頼りなくて。少し力を抜けば、またどこかに連れていかれそうで。
だから俺は、ミユウが完全に眠りに落ちるまで、ずっと同じ姿勢でいた。
どれくらい経ったのか、わからない。
扉の向こうで、気配がした。
「入るぞ」
低い声とともに、ルゥが部屋に入ってきた。
銀の髪が月明かりを受け、冷たく光っている。
相変わらず、俺を見る目は鋭かった。
けれど、ベッドの上で眠るミユウに視線を移した瞬間、その表情だけがわずかに変わった。
痛みを隠すような顔だった。
「……眠ったのか」
「ああ。さっきまで、ひどくうなされてた」
「見たか」
ルゥは近づいてこなかった。
入り口のそばに立ったまま、眠るミユウを見ていた。
「お父さんとお母さんがどうとか、みんなを連れていかないでとか言ってた。俺のことも、最初は見えてなかった」
口にすると、あの悲鳴がまた耳の奥で響いた。
俺は無意識に拳を握る。
「なあ、ルゥ。ミユウは……あんな夢を、何度見てるんだ」
ルゥはすぐには答えなかった。
沈黙が長く感じた。
月明かりの中で、ルゥの横顔は石像みたいに硬い。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「九百年だ」
意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
九百年。
人間の俺には長すぎて、現実味のない数字だ。
でも、ミユウのあの震えと結びつけた瞬間、息が詰まった。
「九百年……?」
「そうだ。ミユウは九百年、毎晩あの悪夢にうなされてきた」
頭の中が、真っ白になった。
毎晩。
あの悲鳴を。
あの恐怖を。
あの涙を。
一日じゃない。
一週間でも、一年でもない。
九百年。
それなのに、昼間のミユウは笑っていた。
俺に手を差し出して、怖くないよとでも言うみたいに。
自分の痛みなんて、まるで何もないみたいに。
「なんで……」
声が掠れた。
「なんで誰も止めてやれなかったんだよ」
言ってから、ルゥの顔を見た。
責めたいわけじゃない。
けれど、言わずにいられなかった。
こんなの、あんまりだ。
ルゥの瞳が細くなる。
「止められるものなら、とっくに止めている」
その声は冷たかった。
でも、怒りだけじゃない。
悔しさも、諦めも、長い時間で削られた傷も混じっていた。
「癒しの力は、他者の痛みを和らげる。だが、ミユウ自身の記憶までは消せない。あいつは笑う。誰かを安心させるために笑う。自分が壊れかけていてもな」
俺は眠るミユウを見下ろした。
白い髪が枕に広がり、月明かりを受けて淡く光っている。
そこにいるのは、世界に狙われる特別な存在なんかじゃない。
ただ悪夢に泣き疲れた、ひとりの女の子だった。
俺は、何も知らなかった。
ミユウが俺に笑ってくれた意味も。
俺の手を取ってくれた重さも。
何も。
「お前に、これが背負えるのか」
ルゥの声が落ちた。
俺は顔を上げる。
「ミユウは天使族からも悪魔族からも狙われている。癒しの力を欲しがる者はいくらでもいる。守ると言うのは簡単だ。だが、お前はスキルなし。魔力なし。昨日のスライムにもまともに勝てない雑魚だ」
「わかってる」
「わかっていない」
ルゥの声が鋭くなった。
「お前が倒れれば、ミユウはまた失う。お前の中途半端な優しさは、あいつに新しい傷を増やすだけだ」
胸の奥で、何かが熱くなった。
反論したかった。
俺だって本気だと叫びたかった。
けれど、喉まで出かかった言葉は、そこで止まった。
ルゥの言うことは、たぶん正しい。
今の俺は弱い。
ミユウを抱きしめることはできても、襲ってくる敵を倒せるかと聞かれたら、答えられない。
綺麗な約束だけで守れるほど、この世界は甘くない。
だからこそ、悔しかった。
自分の弱さが。
口先だけになりそうな今の自分が。
俺はそっとミユウをベッドに横たえた。
できるだけ起こさないように、腕を抜く。
ミユウの指が一瞬だけ俺の服を掴み直したが、すぐに力が抜けた。
その指先に、さっきの震えはもうない。
俺は掛け布を直し、彼女の白い翼が窮屈にならないように整えた。
「……ルゥ」
「なんだ」
「外に出る」
ルゥが眉を動かした。
「何をする気だ」
「昨日の続きだ」
俺は立ち上がった。
頬の痛みも、腕に残るミユウの温もりも、全部が消えなかった。
消えてほしくなかった。
今ここで忘れたら、俺はまたただの情けない高校生に戻ってしまう気がした。
「スライム、もう一回出してくれ」
ルゥはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく鼻で笑った。
「死にたいのか?」
「死にたくない」
俺は即答した。
「怖いし、痛いのも嫌だ。正直、昨日の時点でもう逃げたいと思った」
「なら寝ていろ。ミユウの隣で優しい言葉だけ吐いていればいい」
その言葉に、胸が刺された。
でも、目は逸らさなかった。
「それじゃ駄目なんだよ」
俺は眠るミユウを振り返った。
彼女は静かに眠っている。
俺の言葉で、少しでも安心してくれたのかもしれない。
なら、その安心を嘘にしたくなかった。
「俺がいるって言った。いなくならないって約束した。だったら、抱きしめるだけじゃ足りない」
ルゥの瞳が、わずかに揺れた。
「……口だけなら、誰でも言える」
「だから、今から証明する」
俺は部屋を出た。
神殿の廊下は、夜の静けさに沈んでいた。
白い柱の間を、月明かりが細く流れている。どこか遠くで、水の音がした。昼間なら神聖に見えたはずの景色が、今はやけに冷たく見える。
俺の足は重かった。
身体のあちこちが痛む。
昨日のスライム相手の情けない戦いが、嫌でも蘇る。
転んだ感触。
息が詰まる恐怖。
ルゥの冷たい視線。
ミユウの心配そうな顔。
逃げたい。
それは嘘じゃない。
でも、戻りたいとは思わなかった。
神殿の裏庭に出ると、夜気が頬を冷やした。
青白い花が風に揺れている。石畳の先には、訓練用の広場があった。
ルゥが俺の前に立つ。
その手に、淡い光が集まった。
「最後に聞く。やめるなら今だ」
「やめない」
「スライム相手に怯える救世主など、見ているだけで腹が立つ」
「俺も、自分に腹が立ってる」
だから来た。
そう言う代わりに、俺は拳を握った。
ルゥの足元に光の陣が浮かぶ。
そこから、透明な粘液の塊がゆっくりと形を持った。
スライム。
昨日、俺を地面に転がし、息を奪い、情けない悲鳴まで上げさせた相手。
たかがスライム。
されど、今の俺には壁だった。
喉が乾く。
手のひらに汗がにじむ。
足が一歩下がりそうになる。
怖い。
認めたくないくらい、怖い。
けれど、ミユウの悲鳴を思い出した瞬間、逃げる理由がどこにもなくなった。
九百年、毎晩あの悪夢に叩き起こされてきた女の子がいる。
それでも笑って、俺を信じようとしてくれた女の子がいる。
なら、俺は一晩くらい、地面に転がされても立て。
泣き言を吐くなら、そのあとで吐け。
「来い」
俺はスライムを睨んだ。
スライムが跳ねる。
思っていたより速い。
反射的に身体がすくむ。
逃げろ、と本能が叫んだ。
でも、俺は足を踏み出した。
「怖いけど、もう逃げない」
ザクリ、と鈍い音がした。 俺の剣は、小型悪魔の肩をかすめただけだった。 次の瞬間、黒い影が地面を蹴る。 低く、速い。 俺が剣を戻すより早く、腹に衝撃がめり込んだ。「ぐっ……!」 息が詰まった。 足が浮く。 背中から神殿の裏庭の石畳に叩きつけられ、肺の中の空気が全部逃げていく。 視界が白く弾けた。 それでも、握っていた剣だけは離さなかった。 小型悪魔は、俺より頭一つ分小さい。 なのに、速さも力も桁が違う。 黒い皮膚。 ぎょろりとした赤い目。 裂けた口。 訓練用だとルゥは言った。 けれど、俺には十分すぎるほど化け物だった。「立て」 ルゥの声が飛んだ。 神殿の裏庭には、朝の光が差している。 白い柱。 蔦の絡んだ壁。 噴水の涼しい音。 平和そうな景色の中で、俺だけが泥と汗にまみれていた。「言われなくても……立つ」 膝が笑っていた。 腕も震えていた。 それでも俺は、剣を杖みたいにして立ち上がった。 小型悪魔が、喉の奥で笑うような音を立てる。 馬鹿にされている。 たぶん実際、馬鹿にされている。 魔力ゼロの高校生が、勇者服だけ着せられて、剣を振っている。 向こうからすれば、これ以上ない見世物だ。 けれど、俺はもう決めていた。 逃げない。 ミユウを守ると決めた。 だったら、今ここで膝をついている暇なんてない。「もう一回だ」 俺は剣を構え直した。 ルゥの金色の目が、わずかに細くなる。「雑魚のくせに、口だけは一人前ですね」「雑魚だからやるんだよ」 俺は荒い息のまま笑った。「強いやつが努力したって普通だろ。弱い俺がやるから、意味がある」 小型悪魔が跳んだ。 今度は正面じゃない。 左。 そう思った瞬間、影が右へ流れた。「くそっ!」 俺は反射で剣を振る。 空を切った。 脇腹に爪が当たる。 浅い。 けれど、熱い痛みが走った。 勇者服の布が裂れ、血が滲む。 それでも、俺は下がらなかった。 逃げるためじゃない。 捕まえるために、一歩踏み込んだ。「おおおっ!」 左手で、小型悪魔の腕を掴む。 爪が掌に食い込んだ。 痛い。 でも、離さない。 右手の剣を短く持ち替え、全体重を乗せて突き出す。 刃先が、小型悪魔の胸元をかすめた。 黒い影が、初めて後ろへ跳んだ。 ほんの少し。
「……あの人が」 かすれた声が、夜の部屋に落ちた。 アストリアの神殿の奥。ミユウに与えられた部屋は、白い石壁に囲まれていて、窓から差し込む月明かりだけが、薄く床を照らしていた。 昼間はあれだけ人の声であふれていた神殿が、今は嘘みたいに静まり返っている。 その静けさの中で、ミユウは眠っていた。 いや、眠っているはずだった。 白い羽は力なくシーツに広がり、細い指は胸元で何かをつかもうとするように震えている。額には汗が浮かび、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返していた。 「……あの人が。……あの人が」 俺は椅子を蹴るように立ち上がった。 「ミユウ」 返事はない。 「ミユウ、起きろ」 声をかけても、まぶたは開かない。代わりに、ミユウは苦しそうに眉を寄せ、首を横に振った。 「いや……来ないで……」 胸の奥が冷えた。 昼間、ミユウは倒れるまで人を癒した。 止めても笑っていた。まだ大丈夫だと、いつもの明るい声で言った。 大丈夫なわけがなかった。 こんなに細い体で、こんなに力なく眠って、夢の中でまで誰かに怯えている。 俺はベッドの横に膝をつき、ミユウの手を握った。 驚くほど冷たかった。 「ミユウ!」 自分でも驚くくらい大きな声が出た。 その瞬間、ミユウの瞳が開いた。 「っ……!」 白い羽が跳ねる。ミユウは何かから逃げるように上半身を起こし、そのままベッドの端へ傾いた。 「危ない!」 俺は考えるより先に腕を伸ばした。 倒れ込んできた体を抱き止める。 軽い。 あまりにも軽かった。 腕の中のミユウは、今にも消えてしまいそうだった。薄い雪を抱いているみたいに、強く触れたら壊れそうで、離したら二度と戻ってこない気がした。 「龍夜……くん……?」 「俺だ」 「ここ……どこ……? あの人は……」 またその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に火がついた。 怒りじゃない。 たぶん、悔しさだった。 俺はミユウの肩を支え、逃げるように揺れる顔を自分のほうへ向けた。 「悪夢でも、ラフィセルでもなく、俺を見ろ」 ミユウの瞳が揺れた。 「俺はここにいる。お前の目の前にいる。だから、今はそいつを見るな」 「でも……」 「でもじゃない」 俺はミユウの額に、そっと口付けを落とした。 ほんの一瞬だった。 泣きそうな子どもを現実に引き戻すみた
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」「いや、逃げたかったけどな」「でも逃げなかったもん!」 ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。 俺は強くない。 魔力もない。 剣だって、まだまともに振れない。 でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。「龍夜くんは、絶対強くなるよ」「……なんでそんなに言い切れるんだよ」「だって、諦めない人だから」 何気ない言葉だった。 でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。 誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」 石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」「ほう。言い返す元気は残ってるのか」 ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」「それ、褒めてるのか?」「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」 相変わらず腹の立つ言い方だった。 けれど、不思議と嫌ではなかった。 たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。 初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。 その時だった。 神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。 歓声じゃない。 祈りでもない。 泣き声。 叫び声。 助けを求める声。 ミユウの笑顔が消えた。「行かなきゃ」「待て、ミユウ」 俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。 神殿の大広間は、人であふれていた。 老人を背負った男。 熱にうなされる子どもを抱いた母親。 顔
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で、ルゥが俺を見ている。 長い金髪。背に広がる白い羽。 天使族の長。その姿は、ただ立っているだけで空気を支配していた。「まだ挑むのか」 ルゥが静かに言った。 冷たい声だった。けれど、雑ではない。 試している。測っている。 俺が本当にミユウのそばに立つ資格があるのかを。「挑むんじゃない」 俺は剣を握る手に力を込めた。「勝つんだ」 ルゥの瞳が、わずかに細くなる。「魔力もない。技も未熟。戦い方も知らない。それで何を根拠に勝つと言う」「根拠ならある」「何だ」「俺が、もう逃げないって決めた」 言った瞬間、自分の中で何かが定まった。 俺は勇者じゃない。 まだ救世主なんて呼ばれるような人間でもない。 けれど、ミユウを守りたいと思った。 あの白い羽の少女を、もう一人で泣かせたくないと思った。 それだけは、誰かに与えられた役目じゃない。 俺自身が選んだ理由だ。「口でなら何とでも言える」 ルゥが片手を上げた。 空気が張り詰める。 芝の上に淡い光が落ち、青白いスライムが跳ねた。 その瞬間、体がぐにゃりと歪む。 一体だったはずの姿が、二つ、三つ、五つに分かれた。 俺を囲むように、同じ姿のスライムが跳ね回る。 右。左。正面。背後。 さっきの俺なら、全部を目で追おうとして、全部に騙された。 でも、もう同じ失敗はしない。 俺は剣先をわずかに下げた。 焦るな。 目だけに頼るな。 魔力がないなら、感じればいい。 読むんだ。奴の動きを。 芝が沈む音。 空気を押す気配。 跳ねる直前の、ほんのわずかな間。 偽物は軽い。 本物だけが、地面
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。 ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。 その手を振りほどけなかった。 気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。 だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」 涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。 白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。 綺麗な部屋だった。 なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。「ミユウ」 俺は名前を呼んだ。 届かない。 ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。 昼間のミユウは、いつも笑っていた。 天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。 でも今のミユウは違う。 笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」「こないでっ!」 伸ばした手を、ミユウが払いのけた。 次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。 頬に鋭い痛みが走る。 叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。 でも、腹は立たなかった。 ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。「い
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。 けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。 もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。 もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。 でも、現実のミユウは違う。 白翼の継承者。 特別な癒しの力を持つ少女。 その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。 あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。「事実を言っただけだ」 ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。 銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」 胸の奥に、鈍い音がした。 雑魚。 偽物。 たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。 学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」 やっと出た声は、思ったより低かった。 ルゥの眉が少しだけ動く。「へえ。口だけは救世主っぽいな」「口だけで終わらせるつもりはない」「なら、見せてみろ」 ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。 神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。 少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気が
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ