Masuk「いやあぁっ!」
ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。
胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。
昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。
そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。
「龍夜くん、少しだけ休んでいって」
そう言って、俺の手を離さなかった。
本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。
ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。
その手を振りほどけなかった。
気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。
だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。
「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」
涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。
白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。
綺麗な部屋だった。
なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。
「ミユウ」
俺は名前を呼んだ。
届かない。
ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。
「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
昼間のミユウは、いつも笑っていた。
天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。
でも今のミユウは違う。
笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。
「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」
「こないでっ!」
伸ばした手を、ミユウが払いのけた。
次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。
頬に鋭い痛みが走る。
叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。
でも、腹は立たなかった。
ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。
「いや……いやぁ……助けて、みんなを連れていかないで……!」
ミユウは俺の胸を押し、腕を振り回し、逃げようとした。
このままではベッドから落ちる。
そう思った瞬間、俺は迷わずミユウの両手を掴んだ。
「っ、離して!」
「離さない」
強く掴みすぎないように。
でも、絶対に離さないように。
俺は必死で力加減を探りながら、ミユウの手を包み込んだ。
「ミユウ、聞け。ここには誰もいない。お前を傷つける奴はいない」
「うそ……また、みんないなくなる……!」
「いなくならない」
「うそだよ……だって、みんな……!」
ミユウの声が崩れた。
俺は息を飲んだ。
何を見ているのか、俺にはわからない。
どんな過去なのかも知らない。
けれど、ミユウの涙が本物だということだけはわかった。
怖い夢を見ているだけ、なんて軽く言えるものじゃない。
この子は今、夢の中で何度も失っている。
何度も、何度も。
「龍夜……くん……?」
ミユウの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
俺の名前を呼んだ。
けれど、まだ悪夢から抜けきれていない。涙が頬を伝い、顎の先で小さく光っていた。
「そうだ。俺だ」
俺はミユウの両手を片方の手で包み直し、もう片方の手で、震える指先をゆっくりさすった。
こんなとき、どうすればいいのかなんて知らない。
優しい言葉の正解も、慰め方の正解も、俺には何ひとつわからない。
俺は普通の高校生だった。
救世主と呼ばれても、スキルもない。魔力もない。昨日はスライム相手に転がされただけだ。
でも、目の前で泣いている女の子を放っておけるほど、俺は器用じゃなかった。
「大丈夫だ。俺がいる。お前はもう悪夢を見ない」
言ってから、自分で無茶なことを言ったと思った。
悪夢なんて、俺が止められるものじゃない。
それでも言わずにはいられなかった。
ミユウがこんなふうに泣くなら、何度でも起きる。
何度でも名前を呼ぶ。
何度でも、その手を掴む。
「だから、もう逃げなくていい」
「りゅう、やくん……」
「俺の腕の中で眠れ。怖い夢を見たら、すぐに起こしてやる。何回でも、俺が引き戻す」
ミユウの喉が、小さく震えた。
拒絶ではなかった。
泣き疲れた子どもみたいな、頼りない吐息だった。
俺はミユウの身体をそっと抱き寄せた。
白い羽が腕に触れる。
ふわりと軽い。
けれど、その軽さの奥に沈んでいる孤独は、たぶん俺なんかが想像できる重さじゃない。
「……ほんとうに?」
「ああ」
「龍夜くん、いなくならない?」
「いなくならない」
即答した。
根拠なんてなかった。
でも、ここで迷ったら駄目だと思った。
ミユウはずっと、誰かにそう言ってほしかったんじゃないか。
何があってもいなくならないと。
泣いて暴れても、怖い夢に呑まれても、それでも手を離さないと。
そう言ってくれる誰かを、ずっと待っていたんじゃないか。
俺は救世主なんかじゃない。
でも、今この瞬間だけは、ミユウをひとりにしたくなかった。
「約束する。俺はここにいる」
ミユウは俺の胸元をぎゅっと掴んだ。
小さな指が、服にしわを作る。
その力が、少しずつ弱くなっていった。
乱れていた呼吸が、俺の心臓の音に合わせるみたいに落ち着いていく。
やがて、ミユウのまぶたが重そうに下がった。
涙の跡が残った頬は、まだ青白い。
それでも、さっきまで悪夢に引き裂かれていた表情から、少しだけ力が抜けていた。
「龍夜くん……」
「ん?」
「……あったかい」
それだけ言って、ミユウは眠った。
深い眠りだった。
俺の腕の中で、白い翼を小さく畳み、身を寄せている。
かすかに涙が一筋、閉じた目尻からこぼれた。
俺はそれを指で拭っていいのか迷って、結局、何もできずに見つめることしかできなかった。
頬はまだ痛い。
でも、それ以上に胸が痛かった。
「……どんな夢を見てたんだよ」
答えはない。
俺はしばらく動けなかった。
腕の中の温もりが、あまりにも頼りなくて。少し力を抜けば、またどこかに連れていかれそうで。
だから俺は、ミユウが完全に眠りに落ちるまで、ずっと同じ姿勢でいた。
どれくらい経ったのか、わからない。
扉の向こうで、気配がした。
「入るぞ」
低い声とともに、ルゥが部屋に入ってきた。
銀の髪が月明かりを受け、冷たく光っている。
相変わらず、俺を見る目は鋭かった。
けれど、ベッドの上で眠るミユウに視線を移した瞬間、その表情だけがわずかに変わった。
痛みを隠すような顔だった。
「……眠ったのか」
「ああ。さっきまで、ひどくうなされてた」
「見たか」
ルゥは近づいてこなかった。
入り口のそばに立ったまま、眠るミユウを見ていた。
「お父さんとお母さんがどうとか、みんなを連れていかないでとか言ってた。俺のことも、最初は見えてなかった」
口にすると、あの悲鳴がまた耳の奥で響いた。
俺は無意識に拳を握る。
「なあ、ルゥ。ミユウは……あんな夢を、何度見てるんだ」
ルゥはすぐには答えなかった。
沈黙が長く感じた。
月明かりの中で、ルゥの横顔は石像みたいに硬い。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「九百年だ」
意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
九百年。
人間の俺には長すぎて、現実味のない数字だ。
でも、ミユウのあの震えと結びつけた瞬間、息が詰まった。
「九百年……?」
「そうだ。ミユウは九百年、毎晩あの悪夢にうなされてきた」
頭の中が、真っ白になった。
毎晩。
あの悲鳴を。
あの恐怖を。
あの涙を。
一日じゃない。
一週間でも、一年でもない。
九百年。
それなのに、昼間のミユウは笑っていた。
俺に手を差し出して、怖くないよとでも言うみたいに。
自分の痛みなんて、まるで何もないみたいに。
「なんで……」
声が掠れた。
「なんで誰も止めてやれなかったんだよ」
言ってから、ルゥの顔を見た。
責めたいわけじゃない。
けれど、言わずにいられなかった。
こんなの、あんまりだ。
ルゥの瞳が細くなる。
「止められるものなら、とっくに止めている」
その声は冷たかった。
でも、怒りだけじゃない。
悔しさも、諦めも、長い時間で削られた傷も混じっていた。
「癒しの力は、他者の痛みを和らげる。だが、ミユウ自身の記憶までは消せない。あいつは笑う。誰かを安心させるために笑う。自分が壊れかけていてもな」
俺は眠るミユウを見下ろした。
白い髪が枕に広がり、月明かりを受けて淡く光っている。
そこにいるのは、世界に狙われる特別な存在なんかじゃない。
ただ悪夢に泣き疲れた、ひとりの女の子だった。
俺は、何も知らなかった。
ミユウが俺に笑ってくれた意味も。
俺の手を取ってくれた重さも。
何も。
「お前に、これが背負えるのか」
ルゥの声が落ちた。
俺は顔を上げる。
「ミユウは天使族からも悪魔族からも狙われている。癒しの力を欲しがる者はいくらでもいる。守ると言うのは簡単だ。だが、お前はスキルなし。魔力なし。昨日のスライムにもまともに勝てない雑魚だ」
「わかってる」
「わかっていない」
ルゥの声が鋭くなった。
「お前が倒れれば、ミユウはまた失う。お前の中途半端な優しさは、あいつに新しい傷を増やすだけだ」
胸の奥で、何かが熱くなった。
反論したかった。
俺だって本気だと叫びたかった。
けれど、喉まで出かかった言葉は、そこで止まった。
ルゥの言うことは、たぶん正しい。
今の俺は弱い。
ミユウを抱きしめることはできても、襲ってくる敵を倒せるかと聞かれたら、答えられない。
綺麗な約束だけで守れるほど、この世界は甘くない。
だからこそ、悔しかった。
自分の弱さが。
口先だけになりそうな今の自分が。
俺はそっとミユウをベッドに横たえた。
できるだけ起こさないように、腕を抜く。
ミユウの指が一瞬だけ俺の服を掴み直したが、すぐに力が抜けた。
その指先に、さっきの震えはもうない。
俺は掛け布を直し、彼女の白い翼が窮屈にならないように整えた。
「……ルゥ」
「なんだ」
「外に出る」
ルゥが眉を動かした。
「何をする気だ」
「昨日の続きだ」
俺は立ち上がった。
頬の痛みも、腕に残るミユウの温もりも、全部が消えなかった。
消えてほしくなかった。
今ここで忘れたら、俺はまたただの情けない高校生に戻ってしまう気がした。
「スライム、もう一回出してくれ」
ルゥはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく鼻で笑った。
「死にたいのか?」
「死にたくない」
俺は即答した。
「怖いし、痛いのも嫌だ。正直、昨日の時点でもう逃げたいと思った」
「なら寝ていろ。ミユウの隣で優しい言葉だけ吐いていればいい」
その言葉に、胸が刺された。
でも、目は逸らさなかった。
「それじゃ駄目なんだよ」
俺は眠るミユウを振り返った。
彼女は静かに眠っている。
俺の言葉で、少しでも安心してくれたのかもしれない。
なら、その安心を嘘にしたくなかった。
「俺がいるって言った。いなくならないって約束した。だったら、抱きしめるだけじゃ足りない」
ルゥの瞳が、わずかに揺れた。
「……口だけなら、誰でも言える」
「だから、今から証明する」
俺は部屋を出た。
神殿の廊下は、夜の静けさに沈んでいた。
白い柱の間を、月明かりが細く流れている。どこか遠くで、水の音がした。昼間なら神聖に見えたはずの景色が、今はやけに冷たく見える。
俺の足は重かった。
身体のあちこちが痛む。
昨日のスライム相手の情けない戦いが、嫌でも蘇る。
転んだ感触。
息が詰まる恐怖。
ルゥの冷たい視線。
ミユウの心配そうな顔。
逃げたい。
それは嘘じゃない。
でも、戻りたいとは思わなかった。
神殿の裏庭に出ると、夜気が頬を冷やした。
青白い花が風に揺れている。石畳の先には、訓練用の広場があった。
ルゥが俺の前に立つ。
その手に、淡い光が集まった。
「最後に聞く。やめるなら今だ」
「やめない」
「スライム相手に怯える救世主など、見ているだけで腹が立つ」
「俺も、自分に腹が立ってる」
だから来た。
そう言う代わりに、俺は拳を握った。
ルゥの足元に光の陣が浮かぶ。
そこから、透明な粘液の塊がゆっくりと形を持った。
スライム。
昨日、俺を地面に転がし、息を奪い、情けない悲鳴まで上げさせた相手。
たかがスライム。
されど、今の俺には壁だった。
喉が乾く。
手のひらに汗がにじむ。
足が一歩下がりそうになる。
怖い。
認めたくないくらい、怖い。
けれど、ミユウの悲鳴を思い出した瞬間、逃げる理由がどこにもなくなった。
九百年、毎晩あの悪夢に叩き起こされてきた女の子がいる。
それでも笑って、俺を信じようとしてくれた女の子がいる。
なら、俺は一晩くらい、地面に転がされても立て。
泣き言を吐くなら、そのあとで吐け。
「来い」
俺はスライムを睨んだ。
スライムが跳ねる。
思っていたより速い。
反射的に身体がすくむ。
逃げろ、と本能が叫んだ。
でも、俺は足を踏み出した。
「怖いけど、もう逃げない」
「うそ…だろ。なんで…お前…そんな」 声が震えた。 広大な玉座の間へ放たれたはずの言葉は、黒い柱と高い天井に何度も反響し、最後には冷たい石の壁へ吸い込まれていった。 返事はない。 正面に立つミユウは、俺が知る白い翼の少女ではなかった。 銀色の髪は変わらない。細い頬も、透き通るような瞳も、何度も俺へ笑いかけてくれた顔も同じだ。 けれど、その背中から広がっている翼だけが、夜よりも深い黒に染まっていた。 一枚一枚の羽根から闇色の魔力がこぼれ落ち、床を這う霧となって彼女の足元へ絡みついている。青白い燭台の炎が黒い翼に遮られ、ミユウの顔には凍りついたような影が差していた。 違う。 姿だけじゃない。 俺を見る目に、あのあたたかさがない。「ミユウ……」 名前を呼び、一歩踏み出した瞬間、胸の奥で冷たい輪が縮んだ。「ぐっ……!」 心臓を内側から握り潰されるような衝撃に、身体が前へ折れる。 俺は胸を押さえた。螺旋階段を駆け上がっていたときから続いている異変が、玉座の間へ入ってから急激に強まっている。 乱れた呼吸が、やけに大きく響いた。 床へ膝が落ちそうになる。 それでも、つま先に力を込めた。 ここまで来たのは、倒れるためじゃない。 あいつを連れて帰るためだ。 俺が顔を上げると、ミユウは黒い翼の向こうから俺を見下ろしていた。澄んだ瞳には、心配も迷いも浮かんでいない。 やがて、薄い唇が冷たく動いた。「無様な姿ね」 聞き慣れた声だった。 だからこそ、その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。 ミユウは具合が悪そうな誰かを見つければ、考えるより先に駆け寄るようなやつだった。苦しむ相手を見下ろして笑うなんて、俺の知るミユウなら絶対にしない。「そんな顔で、そんなこと言うなよ……」 絞り出した声に、ミユウは答えなかった。 黒い翼をゆっくりと畳み、俺へ背を向ける。 そして玉座へ向かって歩き出した。 一歩ごとに鳴る靴音が、冷たい空間を重く打つ。 俺から離れ、あいつへ近づいていく。 玉座の間の最奥には、黒銀の装飾に囲まれた巨大な玉座がそびえていた。その上に腰かけるラフィセルは、頬杖をついたまま俺たちを見下ろしている。 怒りも警戒もない。 俺がここへ来ることも、ミユウが俺の前に立つことも、最初から知っていたような顔だった。 玉座へ続く床には
靴底が石段を打つたび、乾いた足音が螺旋階段の奥へ吸い込まれていった。 ひび割れた石壁は肩が触れそうなほど近く、壁に掛けられた古いランタンだけが、狭い足元を頼りなく照らしている。炎は風もないのに揺れ、俺の金色の髪と、ねじれながら伸びていく影を何度も闇へ沈めた。 右へ、さらに右へ。 いくら登っても同じ景色が続き、中央の吹き抜けは底のない穴のように口を開けている。錆びた手すりの向こうを覗いても、下層の明かりさえ見えない。踏み外した石片が暗闇へ落ちていったが、いつまで待っても音は返ってこなかった。 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく跳ねた。 続くはずの次の鼓動が来ない。 心臓だけが取り残されたような空白のあと、遅れを取り戻そうとする激しい脈動が胸を内側から叩いた。冷たい輪で締めつけられる感覚が強まり、吸い込んだ息が喉の途中で止まる。「っ……まだだ」 俺は胸元を押さえていた手を離した。 痛みがあることはわかっている。体が普段どおりではないことも、無視できるほど鈍くはない。 それでも、止まる理由にはならなかった。 この階段の先にミユウがいる。それなら今の俺に必要なのは、痛みの正体を考えることではなく、一段でも多く登ることだ。 視界を遮る曲がり角へ踏み込んだ瞬間、頭上の闇が膨らんだ。 俺は反射的に右手を伸ばした。「アストラルフレイム!」 金色の光が指先へ集まり、剣の形を結ぶ。 直後、上段から振り下ろされた巨大な爪が刃へ激突した。 耳を刺す金属音とともに、狭い階段の空気が爆ぜる。両腕へ押し潰すような重圧がかかり、足元の石段から何本もの亀裂が伸びた。俺は奥歯を噛みしめ、沈みそうになった腰を支える。 敵は上にいる。 ただでさえ狭い場所で、体重まで乗せた一撃を受け続ければ押し切られる。 俺は刃をわずかに傾け、爪の力を外壁側へ逃がした。黒い爪がアストラルフレイムの表面を滑り、石壁へ深く突き刺さる。 石の破片が頬をかすめた。 敵の腕の下を潜り、二段上へ踏み込む。懐へ入れば巨体の力は使えない。そう判断して剣を振り上げようとしたが、切っ先が低い天井へ触れた。 ほんの一瞬、剣筋が止まる。 その隙を、敵は見逃さなかった。 横から黒い衝撃が叩き込まれた。「ぐっ!」 体が浮き、外壁へ弾き飛ばされる。 俺は激突する直前に左足を壁へ突き立てた。靴底が石を削
「ミユウ!」 閉じかけた魔界の門へ、俺は手を伸ばした。 赤黒い光の裂け目が、刃のように細くなっていく。その向こうで、ラフィセルがミユウを連れ去ろうとしていた。白い翼を押さえ込まれても、ミユウは振り返り、まっすぐに俺を見ていた。 怯えきった顔ではなかった。 俺が来ると信じている目だった。「龍夜くん!」 声が届いた直後、ラフィセルの姿が闇に溶けた。 門が閉じる。 ミユウの白い指先が見えなくなり、赤黒い光は一本の線となって消えた。俺の手は、何もない空間をつかんだ。「ミユウ!」 返事はない。 鏡の池を渡ってきた冷たい風が、金色の髪を揺らした。さっきまで門があった場所には、黒く焼けたような円形の跡だけが残っている。「ミユウ! 聞こえるか!」 俺は拳で門の跡を叩いた。 固い壁を殴ったような衝撃が腕を走る。それでも構わず、もう一度拳を振り上げた。「ミユウ!」「いつまでそうやって叫んでいるつもりですか」 背後から飛んできたルゥの声が、俺の拳を止めた。 振り返ると、ルゥは腕を組んで立っていた。いつもと変わらない、偉そうな顔だ。けれど、その視線は俺ではなく、閉じた門へ向けられている。「叫べば門が開くのですか。あなたの声が大きいことくらい、もう十分に分かりました」「分かってる。だけど……!」 言いかけた言葉をのみ込む。 このまま名前を呼び続けても、何も変わらない。 ミユウは最後まで俺を見ていた。助けを諦めた顔ではなかった。なら、俺がここで立ち止まる理由はない。 俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。 冷たい空気が胸へ入る。速くなっていた鼓動を数え、吐く息と一緒に焦りを押し出した。 今やるべきことは、嘆くことじゃない。 閉じた門を開けることだ。「ルゥ。この門は、もう開かないのか」「通常の方法では無理でしょう。向こう側から閉じられた門です。鍵穴すら残っていません」「通常の方法なら、か」 ルゥがわずかに眉を動かした。 俺は再び門の跡へ向き直り、今度は拳ではなく、開いた手のひらを押し当てた。 氷に触れたような冷たさが皮膚から染み込んでくる。 だが、その奥に別のものがあった。 小さな脈。 閉じた門の向こうで何かが鼓動しているように、かすかな振動が手のひらへ返ってくる。 意識を集中すると、俺の身体の内側にも、それに応える熱が生
ラステルへ続く街道が深い森へ差しかかる少し前、俺たちは道端で休んでいた旅商人から、不思議な池の話を聞いた。「ここから東へ半刻ほど歩いたところに、鏡みたいな池があるんだ」 旅商人は荷馬車の車輪へ新しい留め具を打ち込みながら、まるで近所の井戸について話すような気軽さで言った。「鏡みたい?」 ミユウがすぐに食いつく。「ああ。風が吹いても波一つ立たない。空も雲も、のぞき込んだ人間の顔も、何もかもそのまま映すそうだ。けど、ただ姿を映すだけじゃない。本当の姿、本当の心まで見せるんだとさ」「本当の心……」 ミユウはその言葉を確かめるように、胸の前で両手を重ねた。 穏やかな午後の日差しが、彼女の白い翼を淡く照らしている。旅商人の話を聞くまでは、道端に咲いている小さな花を楽しそうに眺めていたのに、今は池のことしか頭にないらしい。 その横顔を見た時点で、俺には次の言葉が予想できた。「行ってみたい!」「そう言うと思った」「だって、本当の心を映すのよ? すごくない?」「すごいかもしれないけど、今からラステルとは違う方向へ行くんだぞ」「半刻だけでしょう? それに、池の中で困っている人がいるかもしれないわ」「今の話のどこに、困っている人が出てきたんだよ」「詳しいことを話したがらない人がいるって言っていたでしょう? 怖い思いをしたのかもしれないわ」 ミユウは真剣な顔で旅商人を見る。「その池へ行った人は、みんな無事に戻ったんですか?」「少なくとも、俺が会った連中は生きて戻ってきたよ。ただ、池の中で何を見たのか聞いても、黙り込むばかりだったな。中には泣き出す者もいた」 俺は思わず森の方角へ目を向けた。 街道から外れた先には、日の光が届かないほど密集した木々が並んでいる。穏やかな風が吹いているのに、森の奥だけはひどく静かだった。「なるほど。本当の心を映すというより、心の奥へ直接作用する魔法かもしれませんね」 ルゥが腕を組み、考え込むように目を細めた。「珍しく慎重だな」「珍しくとは何です。私はいつでも物事を深く考えています」「じゃあ、行くのは反対か?」「誰がそのようなことを言いました?」 ルゥは少し顎を上げた。「人間の噂など、大半は尾ひれのついた作り話です。しかし、本当に精神へ作用する池ならば、魔法的な価値はあります。無知なあなたたちだけを行か
宿屋の一室には、戦いの気配を忘れさせるような静けさが満ちていた。 小さな窓から差し込む月明かりが、木の床へ細長く伸びている。壁際の燭台では、短くなった蝋燭の炎が夜風にかすかに揺れ、そのたびに壁へ映る二人分の影も、寄り添ったり離れたりを繰り返していた。 遠くから聞こえてくる川のせせらぎ。屋根の上を撫でていく風の音。時折、古い建物が思い出したように軋む。 それ以外には、何も聞こえない。 ついさっきまで剣を握り、悪魔と命を懸けて戦っていたことさえ、遠い出来事のように感じられた。 俺は部屋の中央に立ち、自分の両手を見下ろした。 手のひらには、剣を強く握り続けた跡が残っている。体のあちこちには鈍い痛みがあったが、立っていられないほどじゃない。傷の手当ても受けている。 それよりも強く感じているものがあった。 俺の内側を、静かに流れている力。 目に見えなくても、今ははっきりと分かる。 それは誰かから借りたものでも、俺の手に余る得体の知れないものでもなかった。確かに俺の中で生まれ、呼吸に合わせて全身を巡っている魔力だった。 以前の力は、怒りに呼応して一気に噴き出した。 髪は荒々しく逆立ち、燃え盛るような光が視界を埋め尽くした。強大である一方、少しでも気を抜けば自分まで飲み込まれそうな激しさがあった。 だが、今は違う。 自然に流れる金色の髪を指先でかき上げながら意識を集中させると、胸の奥で魔力がわずかに動いた。静かな湖面へ波紋が広がるように、俺の意思を待っている。 俺が望めば、この力は応えてくれる。 怒りに支配されなくてもいい。誰かを守りたいという思いを、俺自身が力へ変えられる。 戦いの中でつかんだその感覚は、まだ体に残っていた。 偶然じゃない。 俺はアストラルブレイヴの力を、自分の意思で制御した。 その事実を、もう疑うつもりはなかった。「龍夜くん」 呼びかけられ、俺は顔を上げた。 ミユウが、寝台のそばに立っていた。 薄い寝間着へ着替えた彼女の銀白色の髪が、月の光を受けて淡く輝いている。いつもの明るい笑顔を浮かべようとしているのに、その青い瞳は少し潤んでいた。 ミユウは俺の姿を確かめるように、金色の髪から頬、肩、腕へ視線を動かした。 俺が本当にここにいるのか。 今にも消えてしまわないか。 そんな不安が、言葉にされなくても伝わっ
悪魔がミユウへ触れようとした瞬間、俺はその手首をつかんだ。「ミユウに触るな」 静かな声が、自分の喉から落ちた。 胸の内には、焼けつくような怒りがある。それでも、視界は澄み切っていた。以前のように感情が力を引きずり出しているのではない。 守ると決めた俺自身が、力を動かしている。 悪魔の黒い皮膚をつかんだ指先から、淡い金色の光がにじみ出した。身体の奥から流れてきた熱が腕を通り、手のひらへ集まっていく。「熱い! なんだ、これは!」 悪魔は目を見開き、翼を激しく羽ばたかせた。俺の手を振りほどくと、赤く光る手首を押さえながら空へ逃げる。 夕暮れの森に長い影が落ちた。 冷たい風が木々の梢を揺らし、草原に咲く白い花が一斉に身を伏せる。その向こうで、悪魔の黒い翼が茜色の空を切り裂いた。 逃がすつもりはない。 俺はゆっくり息を吸い、胸の奥に意識を向けた。 力を無理に引きずり出すのではなく、自分の呼吸へ重ねていく。心臓が打つたび、身体の内側にある熱が目を覚まし、肩から腕へ、腰から足へと流れていった。 金色の髪が激しく逆立つ。 足元から立ち上った淡い金色の光が、俺の全身を静かに包み込んだ。 炎のように荒れ狂うことはない。 光は俺の輪郭に沿って穏やかに揺れ、呼吸に合わせて明るさを変えている。熱も、重さも、すべてが俺の意思に従っていた。「アストラルブレイヴ……!」 背後から、ミユウの明るい声が届く。 その声に押されるように、俺は地面を蹴った。 土が弾けた。 次の瞬間、身体は木々の高さを越え、夕暮れの空へ飛び出していた。 頬へぶつかった風が、金色の髪を激しく揺らす。 速い。 そう考えた時には、地上の草原がはるか下へ遠ざかっている。 三日前までの俺なら、飛び上がった勢いに身体を任せるしかなかった。空中で姿勢を変えるだけでも全身へ無駄な力が入り、着地する場所を選ぶ余裕などなかった。 今は違う。 右足へ魔力を流すと、何もない空に見えない足場が生まれた。そこを踏み込めば、身体は俺が望んだ方向へ鋭く曲がる。 腕へ力を移せば上半身が軽くなり、背中へ巡らせれば翼がなくても風をつかめる。 まるで、空そのものが俺の道になったようだった。 胸の奥に高揚が広がる。 だが、その感覚に酔っている暇はない。 前方を飛ぶ悪魔が右へ身体を傾ける。そのわずかな動
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で







